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マケドニア王朝 (東ローマ) : ウィキペディア日本語版
マケドニア王朝 (東ローマ)[-おうちょう]
マケドニア王朝 (-おうちょう )は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)中期の王朝867年 - 1057年)。
==歴史==

867年マケドニア地方生れのアルメニア系農民出身のバシレイオス1世が、クーデターでアモリア朝3代目の皇帝ミカエル3世を倒して皇帝に即位し、新王朝を開いた。
バシレイオス1世の子孫からは、法律や行政に優れたレオーン6世や、文化人として知られたコンスタンティノス7世、さまざまな軍事的功績をあげたバシレイオス2世などを輩出し、政治・経済・軍事・文化などの面で東ローマ帝国は躍進を遂げた。
コンスタンティノス7世の息子ロマノス2世の未亡人テオファノと結婚して帝位についた軍人皇帝ニケフォロス2世フォカスは、アンティオキアを約300年ぶりにイスラム勢力から奪回し、ニケフォロスを殺して帝位を奪ったヨハネス1世ツィミスケスも、ブルガリアやキエフ大公国軍を破り、シリアパレスチナを制圧した。ヨハネスの死後実権を取り戻したロマノス2世の息子バシレイオス2世は東西で戦いを進め、1018年には宿敵第1次ブルガリア帝国を滅ぼして、ユスティニアヌス1世の時代以来最大の版図を実現。バシレイオス2世の下で南イタリアバルカン半島小アジア・北シリア・アルメニアを支配する東地中海の大帝国として、東ローマ帝国は最盛期を迎えた。
しかし、バシレイオス2世が後継者を残さずに没した後は、享楽的な弟のコンスタンティノス8世、ついでコンスタンティノスの娘ゾエの結婚相手が相次いで皇帝となったが、無能・老齢・病弱な皇帝が続き、農民の貧富の差の拡大や大貴族勢力の伸張、財政破綻、トルコ人の侵入といった問題にも有効な手が打てないまま、帝国は衰退しはじめた。1054年にはコンスタンティノポリス教会とローマ教会が完全分裂(大シスマ)し、西欧との関係も悪化した。
1056年に女帝テオドラが没し、翌1057年にはテオドラの養子ミカエル6世が反乱で失脚したためにマケドニア王朝は断絶。以後30年近くに渡って内乱や外敵の侵入が相次ぎ、アレクシオス1世コムネノスによって建て直されるまで東ローマ帝国は滅亡寸前の状態となった。
この時代の東ローマ帝国は、それまでの実力主義的で身分的な上昇が容易な社会から、血統を尊重し身分の違いを重視する傾向が生じ始め、また同時に地方での軍事貴族の勢力が拡大しはじめた時期である。そのため何度かレカペノス家やフォカス家などの軍事貴族出身者が皇帝となることがあったものの、軍人出身の皇帝たちはむしろマケドニア王朝との縁戚関係の構築により自らの即位を正当化し、正統な皇子(いわゆる)を名目的な共同皇帝として残さざるを得なかった。彼らはいずれも自分の実子に帝位を伝えることはできなかった。
なお、ギリシャ人は、古代以来氏姓や名字を名乗ることはなかったが、9-10世紀頃から名字を名乗るようになり、軍事貴族たちの多くも、レカペノス、ツィミスケス、ドゥーカスなどの名字を名乗っていた。しかし、マケドニア王朝のメンバーは名字を名乗っていない。農民出身のバシレイオス1世にはもともと名字はなく、その後の皇帝・皇族も、ただ自らの高貴な血統と高い爵位さえあれば、あえて名字を名乗って自らの家系を他と区別する必要はなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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